『テレビ分析という困難への体当たり――新たな座標軸となりえるか?』
制度や技術としてのテレビについてならばともかく、テレビに映っているあれこれの番組を包括的かつ時系列的に分析していくというのは、おそらく本当に難しいことなのだと思います。その困難さに真正面から体当たりしているという点で、本書はきわめて印象的でした。
二人の研究者による共著であるこの本は、その困難さを体現するかのようにある緊張をともなった構成になっています。パース記号論を発展させた指標/類像/象徴からなる「記号のピラミッド」の理論や、エーコのテレビ論を踏まえた「パレオTV/ネオTV」といった区別をともに足場にしながらも、両者の分析の手つきにはいくらかぶつかり合うようなところがあります。
テレビを日常世界と独自のやり方で融け合っていく一種のコミュニケーション空間としてとらえていく水島久光は、そこを通して沈殿していくコミュニケーションの動態に焦点を当てます。対して西兼志の方は「記号のピラミッド」の理論に全面的に依拠しつつ、共時的および通時的なテレビのあり方をピラミッドにおける上昇/下降の運動として明快に切り分けていきます。このとき、テレビを経由する水平方向でのコミュニケーションのプロセスが、個々の番組を作り上げている記号のピラミッドにおける上昇/下降の運動という垂直軸と交差する、という形で両者の議論が組み合わさっているというような印象を持ちました。
加えて、水島の議論ではテレビにおける現実のかけらとしての「残滓」が、西の議論ではテレビという存在の両義性を体現する「顔」が、両者の依拠する理論に生気を与える動力源になっています。これらの要素によって理論が実際に動き出し、また同時に相対化されもします。当たり前ですが、理論は現実に接近することはできても、それを捕まえきるということはできません。おそらく「残滓」や「顔」と呼ばれているものは、テレビを分析することの困難さの証人でもあるのでしょう。
本書ではあまり馴染みのない理論が縦横に駆使されており、その点では正直言って初めは議論のなかに入るのに少し苦労するかもしれません。しかしテレビの本格的分析といういまだ踏みなされていない荒地へと踏み込むにあたって、附録のエーコ論文(「失われた透明性」)や番組表(放送ライブラリーでの視聴可不可も載っています)ともども、本書はそのための重要な座標軸になりえるかと思います。